さらば昭和のドリルよ

子供の頃にやらされた漢字をやたら書く帳面とかやたら数式を解く帳面、あれって『ドリル』って呼ばれたはずなんだ。漢字ドリルとか算数(計算)ドリルとかそういう名前だったはず。でも、今はあの帳面のことを『スキル』って呼ぶのをついこのまえ知った。なんてしゃらくさい名前だ。
戦争末期、主要都市が壊滅状態となった後、降伏の宣言が出ない場合は国民皆殺しもありうると、山間の村でも爆撃から逃れるために地下防空壕を拵えた。住民の大半が農民であったため土を掘る能力に長けており、必要以上に掘削は進んで広大な地下街の様相を呈していた。機影を察知するたびにサイレンが鳴らされ、日に何度も防空壕を出たり入ったりしているうちに面倒臭がりな村人はそのまま地上へは出てこなくなった。そうして地上の人影が少なくなってくると、おれもわたしもと村人のほとんどが地下へ潜るようになっていった。闇に慣れない者たちは怯えて暮らしていたが、しばらくすると気紛れに地上に出た際に眼をやられたり瞬く間に日射病になったりと、精神よりも肉体がすっかり地底人化してしまっていた。そうやって誰知ることなく山間の村にアンダーグランドコミュニティが形成されて独自の生活が営まれていった。
地底市立もぐら小学校の職員室では、例年使っていた教材である漢字ドリルの名称が来年から漢字スキルに変わるという知らせを聞いて、教員一同困惑した面持ちで会議をしていた。「上からのお達しだからね、しょうがないよね」教頭が皆にそう声を掛けると「しょうがないで済む問題じゃないでしょう」と若い男性教員が声を荒げた。「このまま放っておいたら、全てのドリルがスキルに取って変わるんじゃ・・・」声を震わせながら若い女性教員が言う。すると用務員のおじさんが「だったらマンドリルはマンスキルになるってことかね?」と言う。「マンスキルってなんか、マンコ好きすぎる、みたいですね」場を和ませようと教頭が言うと「セクハラです!」「教頭サイテー!」「ちんこもげろ!」と罵詈雑言が飛び交い会議は紛糾した。
しばしの沈黙の後「だいたい僕らは地底に住んでるわけだからドリルがなければ生きていけないじゃないですか。それをスキルに取って替えろだなんて・・・穴を掘るのは道具じゃなくて自身の能力でやれってことですか!そんなの無理ですよ!」泣き出すのを堪えながら若い教員が一気にまくし立てた。皆、自分の手を凝視しながら「無理だよそんなの・・・」などと呟いた。そのとき引戸が開き背中を丸めた老人が職員室の中へ入ってきた。「みなさんご苦労さま」と声を掛けたその男こそが、もぐら小学校の校長、堀田堀男だった。「校長、お身体の具合は大丈夫なんですか?」と教頭が声を掛けると「うむ。実は体調は悪くなかったんだ。爪を鍛えておったのだ」そういって後ろに組んでいた手を一同に見せた。鋭く長い爪が全ての指先から伸びていた。
異様な爪を見て絶句する一同に向かって「だいじょうぶ、ドリルなんかなくてもスキルがあれば」と堀田が言った。すると赤い目を腫らした若い男性教員が「校長!僕も掘れますか?」と立ち上がって言った。堀田は微笑んで近づき「掘れますとも!」と男性教員の肩を抱いた。その様子を見ながら教頭が「なんか男色っぽいですね」と口を滑らすと「セクハラです!」「教頭サイテー!」「うんこもれろ!」と再び職員室は喧騒に包まれた。しばしば問題発言を繰り返す教頭に対してこの日の出来事が発端となり教育委員会の処罰が下った。彼は全裸で石に縛り付けられることになりその真性包茎を白日の元に晒したのだが、それを見たもぐら小学校の子供たちは「ドリルちんこ」と呼ぶべきか「スキルちんこ」と呼ぶべきか悩んだという。かくして、もぐら小学校では素手で穴を掘る訓練が教育プログラムの中に組み込まれ、世界でも類を見ない地底人排出校となったのである。  民明書房刊『ドリルとスキルの血塗られた歴史』より