松居一代十夜

第百八夜
カダフィ大佐が「砂漠の民に戻るだけだ」と交渉のテーブルから降りた報を受けるとCIAケースオフィサーのハロルド・ドゥッシェルの顔色はみるみる青褪めていった。作戦指令書をブリーフケースに仕舞うと足早にビルを出て表に待たせておいたシボレー・タホに乗り込んだ。車内を肌寒いくらいに冷房を利かせておいたのだが彼の額から滴る脂汗は留まることを知らず、焦燥しきった顔で運転手へバックミラー越しに合図を送ると車は一路JFK空港へと滑るように発進した。ほんの数メートル移動した瞬間、あたり一面に耳を劈く轟音を響かせて彼らを乗せた黒いヴァンは木っ端微塵に弾け飛んだ。青森県八戸市にあるスナック「ペチカ」のママ、大林茂子(52)は酔い過ぎて焦点の定まらない虚ろな目をして「あれはモサドの仕業だよぬ」と言うのだった。カウンターを挟んで向いに座り、これまでにその台詞を何万回となく聞かされている寿司「清」の従業員、小塚博正(46)は「ママ!松居一代、ありゃあいい女だよぬ」と負けず劣らず呂律の回らない口調でデレデレ言うのだった。