この街で

6月になったので債務の連帯保証人というか代表取締役になって三年の歳月が過ぎたことになる。起業したわけではないから会社としては創業40年ぐらい。といってもそれも暖簾分けというか分家みたいなものだから屋号として勘定すると80年ぐらいになると思う。いま政界でもガタガタ言われている世襲制度については、いいところもあるだろうし悪いところもあるんだろうね、というあやふやな何の解決にもならない言葉しか持ち得ないのだけれども、

私に空間を理解する能力があるのは、私が銅職人の子孫だからである。私の父も祖父も銅職人だった。母方の家族にも鍛冶屋がおり、母の祖父はたる職人(鍛冶屋と同じようなもの)だった。私の母方の祖父は空間と状況に気を配らねばならない船乗りだった。私の背後には何世代にもわたる準備期間が存在するのだ。銅職人は一枚の薄板からボリュームのある物を作ることが出来る。仕事に取り掛かる前に空間を思い浮かべることができなくてはならないのだ。フィレンツェルネッサンスの偉大な芸術家たちは皆石切り工であった。石切り工は平面とか立体とかあまり意識せずに、実は平面的なものから立体的なものを生み出す職人だったのである。金物職人はすべての次元に内を秘めているから、無意識のうちに空間を支配できるようになったのだ。これは誰もが持っている能力ではない。そして私の弟子だと言っているこの二人の建築家だが、彼らには金物職人的能力が欠けているのである。 1924年12月13日 Antoni Gaudi

このガウディの言葉を頼りにしている。親父も爺さんも建築やってた血のチカラを。勿論これは自分自身の能力で新しい地平へ踏み出そうとしている人たちを否定するものではなくて、拠り所のないテメエの才能への不安や疑問をいくばくか取り除くための方便なのだけど。
とまあ楽天的に当たり前のように会社を引き継ぐつもりでいたのだけれども、これまで一番世話になっている社長さんのところへ相変わらずのご愛顧をというような挨拶に行ったら「おめえ本当に頑張れるのか?」と訊ねられた。僕はこの仕事が好きだしそこそこ抱えている仕事もあるし、なにより会社というか債務を放り投げたら抵当やら担保やらいろいろ取り上げられて住むところに困るので続けますと答えた。そしたら

『もう一回同じ人生があるとしてそのときは別の道を行こうとするならやめとけ』

と言われた。そんなこと考えもしなかったけれども、そこからキツイ人生が待ってるのは目に見えていたから言葉に詰まった。でも、たとえ会社を潰していろんな人に迷惑をかけることになったとしてもこの道を退くわけにはいかないのだ。会社云々の前にこの仕事を生業として僕の生き様とすることに決めて東京から引き上げてきたのだし、建築や商売の才能があるかないかなんてやってもないのに心配ばかりしていても意味のないことだろうと思った。それにやっぱり僕はこの仕事がどうにもこうにも好きだったから「二度目でもやります」と言ったら彼は「じゃあ後は頑張るだけだから頑張れ」と言ってくれた。毎年6月になると思い出す言葉。