「無」は形而上「有」だそうだけどほんとは無いよ

伯母が亡くなった。パーキンソン病っていう病気になってから長いこと頑張っていたみたいだけど死んでしまった。「みたい」と言ってしまうほど僕は伯母と随分疎遠になってしまっていた。

昨夜は通夜だった。パーキンソン病っていうのは完治はしないしすぐに死ぬわけではないから入院させてくれないらしく伯母さんは最期の時まで自宅療養をしていた。伯父さんはそんな伯母さんを怒鳴りながら暮らしていたと言い「甘やかしちゃだめなんだよ」という台詞が出たときにはこれまでの一切合財ひっくるめて、おっさんたいがいにしとけよと思ったのだけど、伯母さんの場合は脳も衰えていくらしく周りが手を出しすぎると本人が何もできなくなるそうで、おかげで伯母さんは汚れ物の洗濯などは伯父さんに一切させなかったらしい。『尊厳』っていう言葉の中に『厳(しい)』という文字が入っているのはそういうことなのかと思った。そして、まあいいや。

そんで今日は葬式だった。葬式でお坊さんがお経を上げているときに「生きていることを実感するのは死に触れたときだ」みたいな文言のことをずっと考えていて、臨死体験がないせいかそのイメージが湧かないせいか、それちょっとわかんねえやってお経が終わる頃に考えるのをやめた。逆に「産まれたてをイメージすると死んだっていうことを実感する」みたいなことは言えるなって考えながら寺を出た。葬式って待ち時間とかいっぱいあって暇なもんだからいろいろ考えたりして、そんで久しぶりに会う親戚とかいて、とにかく勝手に疲れる。生きるってなんだよ?