世界はそれを愛と呼ぶんだぜ。たぶん

この時期になると必ず思うことがある。それを思うと心は千々に乱れ行き場のない憤りが当て所なく彷徨う。愛しくて憎らしい。愛憎というのはこういうことを言うのかと思う。
このくらいの時期になると僕のような水飲み百姓でもスキヤキを食べる機会に恵まれ、それはそれは喜び勇んで食べるわけなんだけれども、取り皿というかお椀に生卵を入れてそいつに肉なんかをじょぼんとつけて食べると非常にうまい。がしかし、このうまいのがほんの一瞬の出来事であることに悲しみにも似た激しい憎悪を覚える。世の中はうまくいかないことが多い。
宴席に行き乾杯の発声がなされる前、誰よりも早く椀に卵を割って箸でかき混ぜる。なんかおっさんのどうでもいい挨拶の最中もぐるぐると手早く音を立てないように卵黄と卵白が溶け合うように混ぜている。ほどなくして乾杯の発声がありグラスを隣近所とカチンカチンと合わせとりあえず一口飲んで口を湿らせる。熱せられた鍋の中に肉が入れられていく様を眺めながらまた手元はぐるぐると卵をかき混ぜている。赤い肉に火が通ると鷲や鷹が眼下の獲物へ向かって急降下するように空気を切り裂く勢いでミディアムレアのビーフにロックオンしたチョップスティックがギロチンドロップでフォーリンラヴする。その肉を攪拌し続けた卵に浸して口に放り込む。そこで「んーまい!」と感嘆の一言を発したいのは山々なのだけど、正直さほどうまくない。
というのも、その卵には何ら味が付いてなくて肉にもまだ割下が染みてないので実際味が薄い。だけども最初のうちに椀の中に味を付けてしまうと後でしょっぱくなってしまうので、これも後から旨い肉を食べるため多少の犠牲は止むを得ないという覚悟によってロッキーのように味のない生卵を肉もろとも喉の奥へと流し込む。あまり肉ばかり突付いていると公安にマークされるので肉の次はネギなり白滝なりを食べることになるのだけど、一口目を食べ終わる頃にはあれほどまでに攪拌して溶け合ったはずの卵黄と卵白がもう分離し始めている。白滝を鍋から取り椀の中へ入れてチュルっと食べてみると一緒にヌルッと卵白も連れて来てしまう。そうなるともう椀の中には僅かな卵黄しか残っていない。たった二口でだ。
となるともう傍目を気にしている場合ではなくなり肉の亡者と成り下がる。肉に卵黄をペチョっと付けて食べる。この三口目が僕とスキヤキの物語における幸せの絶頂となる。次も肉を頂く。鍋の中の肉及び椀の中の卵黄へ割下が染み込み始め、しょっぱさグラフは二次曲線を描いてしょっぱさレベルは上昇してゆく。まだ卵黄のまろやかさが残っているうちに肉をくたくたになる前の肉を頬張る。そろそろネギでもいっとくかという感じでネギを椀の中へ入れたが最後、あの繊維の隙間から割下が大量に流れ出て椀の中はもう割下天下になってしまう。後は惰性で食ったり飲んだりして時が流れる。というか割下の染み込みにくい白滝の出番が多くなる。
スキヤキを用意するような宴会というのは得てして肉なんかそれほど食えないような体質のおっさんが多いので、君はまだ若いんだからしっかり食べなさい、とかなんとか言って余った肉をこちらへと回されることが多い。がっついたせいで半分火傷したような舌でしかも口の中がしょっぱくてヒリヒリしているタイミングでそれをやられると嫌がらせ以外の何者でもないのだけど、えー、いいんですかー?とかカマトトぶって肉を食らう。いましかないだろうとそこで卵を新調するのだけど、やっぱり一口目は旨くないし、卵白はヌルッと入ってしまうし、ネギを食ったら最後だし、なんというかベロが悲鳴を上げながら非常に切ない気分でスキヤキの夜は更けるのだ。