人はそれを居直りと呼ぶ
人は誰しも正論の前にひれ伏してしまうのだと思うのだけど、そもそもその正論自体が正しいのかどうかなんてわからない。実のところ正論を吐く側の利害関に基づいて構成されている場合がほとんどではないか。
酔って店のオンナのコのおっぱいを千切れるほど揉みしだいている輩がいたとして、こらー!嫌がっているじゃないかー!みたいなことを言って止めに入る人がいて、善意の第三者であるところのその仲裁人がもみ男に、いくら酔っているからといってそういうことしちゃいかんとか言うわけだ。正論っぽく。でも実はその仲裁人もおっぱい揉みたくて仕方なかったので羨ましくて言っただけだったりする。もしかしたらオンナのコはもみ男のことが好きでまんざらではなかったかもしれない。まずないけど。あと、店側にしてみるともみ男はおっぱい揉むけどバンバン金を落としていく上客であるから、まあおっぱいの一つや二つ目を瞑っておくとかそういう事情もあったかもしれない。そんでまた、もみ男の隣の席にはおっぱいパブのスカウトマンあたりが座ってオンナのコのことを観察していたかもしれないし、実はこのもみ男は天才外科医であり酔ったふりしてオンナのコの乳がんについて調べていたのかもしれない。
とまあこのように秩父山麓乳撫事件(仮)に関しても枚挙にいとまないわけなので、各々が抱えている『事情』ってものがあるから一元的な正論なんていうのは、それはもう信仰の部類に入ってしまいそうで「聞こえはいいけど納得いかない」話だったりするわけだ。「夏のせい」も同じ。でも夏だから仕方ない。
チラシを捲って裏面。
正論を突き付けられて説教されたりなんかすると、ありがとうございますと思うし言う。気に掛けてくれてもらって感謝するという感じ。そういう気持ちを忘れちゃいかんとは思うものの、ちょっとエセポジティブ精神論に囚われすぎて「ほんとダメだなあ」とズブズブ底なし沼に落ちていってしまう今日この頃。肉球を押しても爪が出ないのだ。「うっせえハゲ。言われなくたってわかってんだよ。なんとかしようってやってんだよ」ぐらいの反応が外に出ない程度にあってもいい。「そもそも説教の通りに俺がやったら自分困るくせにそういうこと言うっていうのは出来ねえって思ってんだろ」と発奮するべきなのだ。大人の対応は捨ててもうちょっと感情を開放したほうがいいと思った。夏だし。