おっさんの青春のベル鳴りっぱなし

本来なら年に一度、夏の恒例行事というようなものにしたかったのだけど生憎都合がつかなかったり心の生理2日目が重かったりしたので、年明けて1月の終わりの頃にこの街で再会を果たした。前夜に雪が舞っていたから翌日は寒くなるなと思い「温かい格好でお出掛けください」と連絡をしたのだけど、翌日は晴れてそれほど寒くはならず、モッコモコの厚着で登場した彼は「バスの中が暑かった・・・」とすでに消耗していた。そんなこんなで第2回目の撮影会。
前口上として必要なのかどうかはわからないけれども、僕は「写真を撮る」という行為に疎い。それが災いして根本的な無理難題を押し付けるような場面もあって、それについては口惜しいというか申し訳なく思う。でも、と思う。そっちに気がいってしまうと余計なお節介をしてしまう気がするから、最低限の条件は整えてあとは煙草でもふかしながら彼の仕事をぼんやり眺めているのがベストなのかなと思う。そうやって納品された写真を見たときの感覚というものは、とても新鮮で、まるで僕の目では見たことのない風景のように感じるのが楽しい。
つくづく思ったのは、彼の写真に写る人の姿が、なんかもう、うまく言えないんだけど、いい。
前回は個人のところへお邪魔しての撮影だったので人そのものは写らないようにしてもらった。かわりに人の気配が感じられるようなるといいなと思っていたところ、その空気というか体温のようなものが、どういうカラクリなのか知らないけれど表現されていて驚いて感動したのだけど、今回はお店を巡ったので店主なりが堂々と写っていて、それが本当にいいのだ。こう、なんつうかな、人いれなきゃダメだ、と思ってしまうほどによかった。おかしな例えになるけど、彼の写真に人がいなければ素うどんなのだ。人が入った途端に、きつね、たぬき、天麩羅うどんになる。素うどんでも充分にうまいと思うけれど、やっぱり天麩羅入りのほうがうまいんだよ。
そんで、僕がつくっているものは『うつわ』なのだなと改めて思った。決して作品ではない。
来年も再来年もお願いしたいと思っているのだけど、彼が出世でもしてギャラが高騰してしまうとお願いしにくいなと思いつつ、それでも余裕かましてポケットから札束が取り出せるようになるようにがんばろうとか強がりにも似たことを思うのだった。がんばれ平民金子。おれもがんばる。