リンダリンダ 第三話

「モウカエッチャウノ?」と延長料金を上積みさせるべく愛子ジーニョは引き止めるような物言いをするのだが、クレオパトラの鼻がもう少し低かったら歴史が変わっていたと云われるように愛子ジーニョの前歯がもう少し控え目であればあの夜の歴史も変わっていたであろう。「おほほ、また来るから」と決して果たされぬ形ばかりの口約束を交わして席を立った。アディオス。店を出て階段を下りて再び通りの歩道に立ったときに、これは駐車場に辿り着く前にどこかで暖を取らねば凍え死んでしまうやもしれない。甘く見ていると命を落とすであろう寒さに戦慄し再び暖が取れそうな店へと歩を進めた。比律賓国の女給の店を出てすぐ近くのビルにある馴染のバーに入ろうかと一瞬思ったのだがここで休んでしまっては駅前の駐車場に辿り着く前にもう一度休まねばならぬ計算になり、ちょっと疲れたからここに腰掛けて休んでいこうなどと歩道にしゃがみ込んだが最後「寝たら死ぬぞー」と八甲田山さながらに励まし合う羽目に陥るであろうから忸怩たる思いでバーを横目に緩い坂をえっちらおっちら歩いて駐車場まで目と鼻の先の辺りまでやってきたところで急激な体温低下を防ぐため緊急避難的に駅前ビルへ逃げ込んだ。

これまで幾度となく乗り降りした昇降機に乗り込んで2階の釦を押す。そこに店を構えるのはいわゆるナイトパブであるのだが、このパブという店の定義が今一つ曖昧で、クラブのような高級感はなくキャバレーのように観覧劇が催されるわけでもなく、キャバクラと呼べる華やかさもなくスナックと呼ぶほど狭くもない店ではなかろうか。風営法によれば第二条第1項第五号の薄暗さの中で第二条第4項の接待飲食等営業あたりに該当するものと思われるのだが、そこにはクラブだとかスナックだとか呼称の区別はないので、オンナのコが隣に座る店でショーのないところはよくわかんないから全てパブと呼んでおけば当たり障りがないかと思ってパブ呼ばわりしておる次第。店側にしてみれば「ウチはスナックなんだよ」或いは「当店はクラブでございます」という声もあろうが「まま、そんな目くじら立てなくても、皺が増えますよ、ね」と嗜められることが多いので切り盛りしている女将は「ママ」と呼ばれるのではないか、そんなわけないか、などと逡巡しているうちに昇降機は2階へ到着したのである。

土曜の夜ということもあって店内は満員御礼の大盛況で混雑しており飛び交う喧騒と嬌声を掻い潜るように奥のボックス席に通された。歩いている最中に電話して座れるか確認しておいた甲斐があるというもので、備えあれば憂いなしであるとはよく言ったものだ。少しの間ぼんやりしていると左手に日本人の若い女給がやってきて「今晩はー」と声を掛けてきたのでチラと見やると、見たことのある娘であったのだがどうにもこの娘とは波長が合わないというか話が噛み合わないので斧寺君の隣へ行けばよいのにと祈ったのだが僕の隣に座ってしまった。それから斧寺君の隣の席が空席のまま少しの間があってマスターがやってきた。彼は斧寺君に何事か囁いて尋ねておった。「日本語がほとんど・・・」と漏れ聞こえてきたのだが斧寺君はその言葉を承諾というかむしろ快諾しておったので、こんな田舎くんだりまで来て遠慮することはないと口を開きかけたのだが、またそれも対人関係における感性に関る難しい問題であったので彼の性癖に口を挟むべきではないなとじっと見守っておった。しばらくして泰王国人の女給がやってきて斧寺君の隣に腰掛けたのであった。

顔見知りであるマスターには偶に日本語の不自由な女給を宛がわれる。無論、彼女達の事情を知っている人間のところへ宛がうのだからこれはある種の信頼の証でもあると言えなくもないのだが要は甘えられるているわけであり、その見返りとして幾許か飲み代を差っ引いたりしてもらうなり基本料金以外は徴収されなかったりするのだが、まさかこの日に限って不自由度が極めて高い女給を初見の二度と来ないかもしれない客に向かわせるとは甘え放題だなあと自分の貫禄不足を哀しく思ったのだが、そういえば「今日はどうします?」と聞かれた際に「ぶっ込みで」と応えていたような気がする。それにしてもニ軒連続で碌に会話もできないのではとこちらが気に病むほど斧寺君は気にしていない様子でありそれどころか泰王国人の女給が手に持っていた日本語を覚えるための帳面に何某か、どうやら英語らしき文字を書き込んでちゃんと遣り取りしているのでなんと天晴れな男であると感慨深くその様子を眺めていたら、隣に座る化粧を落とすと眉毛が失われる女給に「このあいだ成人式だったんですよー、でもこれちょー二日酔いでー、あはは」かなんか言われて携帯電話で撮影した着物姿の写真、置屋の中でも随一の訳あり姐さんですといった風情の写真を見せられ「着物、紫か」と暗に褒めるところがないといった返事をしたりなんかしておった。

我々の先祖がまだ髷を結って「ござる」などと言っていた頃に和蘭葡萄牙から南蛮人がやってきた際、お互いの言葉を全く理解出来ない状態からどうにか意思の疎通を図れるようになるまで、コミュニケーション能力に長けた役人なりが存在し徐々に語彙を増やしていったと思われるのだが、斧寺君はまさにその外交役人そのものでありまるで言葉の通じない泰王国の女給と帳面に何かを書き合ったりそれを見た女給に「やっだーもーぅ」のような反応をされ「あははは」と微笑んだりするような遣り取りしておった。なにをしておるのか無性に興味が沸いたので隙を見計らって帳面を取り上げ内容を見たら

I like big tits

と小汚い英字で書き記されておった。彼は本物だ、ラストサムライだ、と畏敬の念を抱かずにはいられないのであった。

おしまい(めでたし)(めでたし)

追記:魔法の言葉を書き忘れておりました。

この物語はフィクションです。登場する人物・団体等は全て架空のものです。