トモダチに出産祝いを届けた日の日記

葬式に行ってきた。
僕自身は全く面識のないお婆さんの葬儀だったのだけど、お婆さんの息子さん、といっても60代のおじさんなんだけどその方が親父と知り合いだったらしくて香典を貰っておったので義理を返しに行ってきた。ちなみにそのおじさんとも全く面識がない。田舎じゃそんなことも多々ある。自慢でもなんでもないし自慢になんかならないのだけど葬式へ出向く回数は割りと多いと思う。なにも好き好んで葬式へ行ってるわけではないのだけど、言わずもがな年寄りが多いから今日の葬式みたく会社関係で付き合いのある誰それの親御さんが亡くなってというケースが多々ある。この時期のように寒暖の差が激しいと毎週葬式なんてこともあながち冗談ではなくなる。
様子がわかんないうちは出迎えてる会ったこともない近親者の方々に決まり文句の挨拶をして、あんた誰っすか?というような視線を浴びつつそそくさと焼香を済ませて逃げるように葬儀場を後にしていたのだけど、いろいろ話を聞いていると「無礼者め名を名乗れ」ということだったので最近は名乗るようにした。すると喪主のおじさんなんかに「ああ、あんたが息子さんかね」というような声を掛けて頂けるので割と堂々と焼香したりできる。帳面を見れば名乗らなくても義理を果たしたことは確認できるのだけどそういうことらしい。名乗ると気分的にもラクだ。
たいがいの葬式は荼毘に付した後に行われるので、祭壇に置かれた面識のない年寄りの遺影を眺めて「この人死んじまったんだなあ」と思いつつ焼香するのだけど今日は違った。違ったからこうして日記に書いているのだけど、焼香台の前に立って遺影を見上げたとき「なんか遠いな」と思ったら台の向こうに棺桶があった。そういう形式をナントカ葬と呼ぶらしいのだけど名前は忘れた。とにかく僕は棺桶の頭の側に立っていて、棺桶に気付いたときに蓋が開いているのが見えたのだった。台のほうへ身を乗り出さないと蓋の中は見えなかったのだけど、作法的にはどうなんだ?とか思いつつも答えが出る前に身を乗り出して覗き込んでいた。
棺桶の中に遺影のお婆さんがいて「この人死んでるんだ」と思った。というかこのお婆さんが生きてるときを俺知らないんだな、と思ったのと同時に、そっか俺は生きてるのか、て思った。
帰りの車の中で、生きるとか死ぬとかなんだろなーみたいなことをぼんやり考えたりしてたのだけど、その境界線っていうか、こっち側と向こう側の境には何があるのかなみたいなことを考え始めたらだんだんわけがわからなくなってきて、生きるってスバラシイね、ということにしてむずかしいことは考えるのをやめにした。なので他にもいろいろ思ったんだけど忘れた。