小さいだるま

会社にだるま屋さんが来年のダルマを持ってきてくれた。年末にしか顔を見ないおじいさんなのだけどその顔を見ると、言い逃れできないほど今年ももう終わってしまうのだなあと実感する。何度も繰り返される忘年会よりよっぽど暮れっぽい。この先は泣き言に近いから畳む。
だるま代金を支払いお釣りを受け取り、おじいさんが手提げ鞄に代金をスローモーな手捌きで仕舞うのを眺めていたら「お母さん元気?」と言われた。「うん、元気」と返事をすると、親父が亡くなってから寂しいだろうねとかそんなことを話始めた。たいがいこういう場合の定型文として「まあ貧乏暇なしで忙しくしてるから寂しがってる暇もない」と言うわけで、おじいさんにも抑揚のない感じでそう言った。別に同情されたくないとかそんなんではないのだけど、事実そんな日々だし母ちゃんにしても寂しくて寂しくてという様子もないわけで。おじいさんは唐突に親父が入院していた頃の話を始めた。おじいさんは腰を痛めて親父と同じ病院へ入院したのだけど、待合やデイルームなんかで母ちゃんとよく顔を合わせて話しをしたらしい。今でも親父が入院していた病院を通りかかってピンク色したタイル貼の外壁を見ると、もうここにはいないんだなってときどき思ったりするのだけど、おじいさんの話しを聞いていたら妙に鮮明にその病院の外壁の色であったり待合の風景であったりが目に浮かんで、言い様のない喪失感というか、過去になっちゃった感に包まれてしまって涙の気配を堪えるのに必死だった。もう一年半も経つのに。
おじいさんの話しは続けられていたのだけど生返事をうんうんと返すのが精一杯だった。するとおじいさんは「俺もさC型肝炎でさ、血のカタマリをカテーテルでさ」とか言い始めた。他の内臓疾患については全然知識も興味もないのだけど、肝臓の病気だけは親父の経過を見てきただけに話しを聞くと焦燥感に駆られるというか、やばい!って頭の中で警報機が鳴り響いてパトランプがぐるぐる回り始める。たぶんパグみたいなくしゃくしゃの顔をしておじいさんの話を聞いた。おじいさんは今年の夏と先月にカテーテルを入れて血を抜いて随分調子がいいから今年もこうやってだるまを持って歩けていると小さく笑って言うのだけど笑顔がつくれない。おじいさんの向こう側が透けて見えちゃうんだ。でも笑顔で「騙し騙しでもやっていくしかないよね」って。
毎年会社で買っていただるまは直径が60cmぐらいある、よく選挙事務所のテレビ中継に映ってるあのサイズのものだったのだけど、おじいさんが今年持ってきただるまは半分ぐらいの大きさのものだった。「今年は可愛いのにしたよ」とおじいさんは言っていた。景気が悪いからなのかおじいさんが運ぶのに楽だからなのか、どういう理由かわからないけれど僕にしてみれば身の丈に合ってるだるまだった。料金も半分ぐらいで済んだ。その小さいだるまを見るとなんだかおじいさんが「ぼちぼち行こうか」ってそんなふうに言ってるような気がした。しょっぱいな俺。

追記

だるまっていうのは年々大きくしていくものだそうで、まだヒヨッコの分際である僕の場合は小さくて当然なのだそうだ。縁起物だからケチケチしないで大きけりゃいいのかと思ってたよ。