そのうち孵化するんじゃないか

数年前からずっと考え続けていることがある。結論なんか出ないんだろうけど考えている。
あるモノに対する感想っていうのは掛け算なのだと気付いた。たぶんこれは間違ってない。直感的な判断の値と、極めて客観的な情報っていうものを掛けた値が、いわゆる『感想』に相当するのだ。ラーメン屋に入ってラーメン食ったとする。店の衛生的な部分において入力された情報をどう感じたか、スープを飲んだときの情報と感覚、麺の太さがどうだ、客層はどうなんだ、というのがいちいち掛け算になってて、それぞれの値をまた掛け算してラーメン屋に対する感想がはじき出されるわけだ。ここまでは文字数さえあれば尤もらしい説明ができると思う。だけど『直感的な判断の値』っていうのが実に理不尽な値であることは想像に難くない。産まれてからこれまで生きてきた経験から発生してる部分もあるし、眠いとか臭いとか、まぶしいとかうるさいとか、その瞬間の状況にも大きく左右される部分もある。そんで、感想を構成している値のことを考えたときに『客観的な情報』っていうものの影響力っていうのは微々たるものなのだ。どう感じたかっていうことの添え物でしかないと。うどんでいうところのゴマだ。
とまあそんなようなことを何年も何年も考えたりしてるわけなんだけれども、昨夜読んだダイアリに(書いてる内容がグダグダなのでping飛ばさないけど)その感想っていうか感情の伝達について書かれていたので、いままで長いこと考えたりしてたことっていうのは平面上(つまり自分の中での位置づけ)のことであって、それが世間に伝播してゆくのに、もういっこ軸を書き足さないといけないんだなと目からウロコだった。たぶんX軸上に『直感的な判断の値』っていうのが入って、Y軸上に『客観的な情報』ってのが入って、Z軸上に『伝達するためのチカラ』が入るのだろうなっていうイメージは持てたのだけど、果たしてそれがなんなのか考えていたら朝になってしまった。いろんなケースを想定してみたけどちっとも辻褄が合わないんだよね。
今日の時点でZ軸のチカラを仮定するとしたらそれは『熱量』なんだと思ってる。拡散的な熱波みたいなものが自分を中心に放射状に広がっていくのだと思う。っていうのを平たく言うと「わかりやすさ」なんだろう。誰でもわかるようなことっていうのは全方位に向けて3次元で拡散するから。耳元で愛を囁いたりするのは放熱の仕方が全然違うんだと思う。実際のところは非常にわかりにくいことなんだろうけど、さっき書いたように『直感的な判断の値』っていう数値がべらぼうに高いので、熱量が低くても最終的な数値がでかくなってあの娘の乳首も固くなるわけだ。
とまあ、よくわかりませんねっていうお話でした。みんなも眠れなくなればいいと思うよ。