ツマヨウジ入り

このところ睡眠不足で昼休みの後などは眠くて仕方なく仕事の効率がすこぶる悪い。けれども生活習慣というか体内時計が狂っているせいか夕方から急に頭の働きが活発になり、連日連夜の深夜残業で仕事の帳尻を合わせている。電車通勤ではないので終電の時間を気にすることもなく日付が変わろうとも仕事は進められる。昼間は昼間で顧客とのやりとりや関係各社との連絡調整で飛び回り、夜は夜で事務的な机仕事をしているので、この働き方は「二毛作」と呼べるのかもしれない。2倍の供給があるということは需要も2倍なのだ。ある程度の規則性はあるものの、従来の活動と違った暮らし方をしているから食事の時間もでたらめになる。夕方の打合せの後にラーメン屋で夕食を済ませてからもうかれこれ7時間経つ。深夜2時。まだ仕事の目処が付かないのでコンビニで夜食を買ってくることにした。カップラーメンは店の棚にあるもの全種類制覇しているけれど、それでもラーメンにしようと思う。
「お箸はお付けいたしますか?」 「はい。お願いします」
素手で食う選択をさせているのではないことは判っているのだけど、ほぼ毎日通っているにも関らず今夜も箸のことを訊かれた。いい加減黙ってても箸を入れてくれてもいいんじゃないか。以前にいたレジのおじさんは「毎晩大変だねえ」とか「まだ終われないの」とこちらの事情を推測して何かと声を掛けてきて、それが嬉しい日があったり鬱陶しい日があったりしたのだが、この死んだ魚の目をした若い男に代わってからここでの会話は箸のことを確認するだけになった。無関心であるなら箸のことも黙って袋に放り込めばいいのに。こいつもやがて居なくなるだろうから、その後任には可愛らしい女の子が入るといいなあと思いながら釣り銭を受け取って店を出た。会社へ戻る道すがら知っている芸能人がコンビニのレジに立ってる姿を想像しながら誰がいいか考えた。釣り銭を渡しながら手を握り締め「頑張ってくださいね」なんて言われたらその場で求婚してしまうだろうなあなどと独りでクネクネしながら歩いた。
給湯室から湯を沸かしたヤカンを持って席に行く。カップに湯を注ぎ袋から割り箸を取り出し紙蓋をカップの縁で挟み込んで止める。給湯室に戻ろうとしたときふと割り箸の入っていた紙の細長い袋が目に入る。薄い紙の袋からストローを抜き取った後、そのくしゃくしゃに縮んだ袋に水滴を垂らすとグニューっと伸びる動きをするけれど、割り箸の袋がまさにそのくしゃくしゃの形になっていた。伸びるかなと思い手に持っていたヤカンの湯をひと垂らししてみる。袋は湯を弾いてストローの袋のようにはならなかったけれど微かに動いた。『ツマヨウジ入り』と印刷がしてある部分が見えたあたりで動きが止まったので給湯室へ行き、ヤカンをコンロの上に戻してガスの元栓を締めた。麺が伸びてしまう前にと急ぎ足でトイレへ行き用を足し席に戻った。
知らない女と小さい女の子がいる。二人して俺の机の上にちょこんと座っている。
席に近づきながら「あのー、どちらさまでしょうか」と声を掛けた。意味がわからない。二人はじっとこちらを見ている若干微笑み加減で。全然見た事ない。誰だお前ら。っていうか女はちょっと可愛い。つうか誰なんだ。女の子も可愛い。つうかなんで?あれ?濡れてる?かなり二人に接近したところで「あのー」と言いかけたとき女の子が「パパ」と呼んだ。思わず後ろを振り向いたけれど誰もいない。俺か?俺がパパなのか?「はえ?」とマヌケな声を出すと今度は女が「おつかれさま」と言った。その声はどことなく懐かしいような気がしたのだけど、この女に全く見覚えがない。え?え?え?俺はパニックに陥りながら頭の片隅でラーメンが伸びてしまうことを心配していた。っていうかなにこの二人。こんな深夜に。どっから入った。つうか誰なのよ。
次第に目の前の光景がぐにゃりと捻じれ始めた。遠のく意識の中で女の「あなた!あなた!」っていう叫び声が聞こえる。小さい子も「パパー」って叫んでる。どうなってんだ。やがて膝から崩れ落ち床に突っ伏した格好になった。それでも完全にブラックアウトしてなくて濃い霧の向こうに俺の机が見える。すると女と小さい子供が机の引き出しの中に消えていった。嘘だ、そんなベタな設定って。そう思った次の瞬間、完全に意識が飛んだ。
頭の後ろから数人のくすくす笑う声が聞こえる。夢かと思ったけれど妙にはっきり聞こえてくるからこの笑い声が現実であると認識して目を開けてみた。俺は会社の床で寝ていて、出社してきた社員がだらしなく横になっている俺を見下ろして笑っている。「お、おはようございます」と言って起き上がり周囲をぐるりと見回す。どうやら昨夜の珍事があった直後に気を失って夜が明けたっぽい。机の上のカップ麺はスープを麺が吸っていてすっかり冷めてしまっている。箸の袋がビリビリに破れて机の上に散らばっている。はっと思い出して机の引き出しを勢い良く開けてみたが中はいつも通り文房具や書類が放り込まれていて、タイムマシンにはなっていない。疲れすぎて幻覚でも見たのかなと思ったけれど、妙にリアルだったし今でも女や小さい子供の声が思い出せる。上司に促され午前休を取って家に帰って寝ることにした。
今日はもう来なくていいと言われていたが、納期が迫っている仕事のこともあるので午後から出社した。昨夜のことをぼんやり思い出して意味を探したりしていたせいで仕事がちっとも捗らない。退社時刻になっても予定分まで進んでいないのでわーわー言われたけれど残業することにした。誰からも干渉されない状況になっても進捗状況は芳しいものではなかった。そりゃそうだ気になりすぎる。そんなこんなでまた腹が減ってきた。今夜もコンビニの箸袋に熱湯をかけたら女たちは現れるのかな。そんな期待のようなものを感じつつコンビニへ行くと、レジの店員が若い女性に代わっていた。っていうか昨夜の女だ。なんて予定調和的な不思議体験。いや、でも昨夜の女と似てるけど少し若い感じがする。女の顔を凝視しつつラーメンの棚へ。不審に思ったのか女もこちらを訝しげな表情で見ている。通報される前に視線を目の前のラーメンに向け、しばし逡巡した。妹だろうか。それとも他人の空似だろうか。いやいや机の引き出しってことは未来からやってきた本人だろう。でもどうやってそれを確認したらしいんだろう。
考えがまとまらないうちにカップ麺を持ってレジへ向かう。「お箸はお付けいたしますか?」と女が言う。「あ、ああ、はい」と答え金を払う。極めて事務的に釣り銭を手渡される。今だ。今何かを言わないともうチャンスがないかもしれない。焦った。作戦が決まるまでは物色するふりしていればよかった。えーと何か言わないと。時間にすればほんの1,2秒のことだろうけど物凄く長い時間そこに突っ立っていた気がした。いよいよ時間切れだ。彼女もまだ何か用があるのかしらという顔をしてこちらを見ている。もうどうとでもなれと思った。
「あ、あの、昨日・・・」
「え?」
「あのですね、昨日ですね、その、あの・・・」
「はい?」
「昨日からおでん始まったんですよね。それでちくわを食べたら美味しかったので、今日もちくわを買おうと思ったんです、だからちくわを一つください」
「は、はい。ちくわですね」
からしは結構です」
秋の夜風に吹かれながらちくわの穴から見た月は、なんだかつみれみたいだった。