あなたが人を裏切るなら僕は親父を殺してしまったさ

金太郎飴的にチラシの裏側。覗くならそのつもりで。
「呼吸が上手くできないので鼻に酸素のチューブを入れました」という連絡を受けたのが夕方。雑事を済ませて病院へ様子を見に行ったのが21時すぎ。寝ぼけているのか意識がはっきりしなくて、うわ言のようなことをぶつぶつ言っていた。しばらく噛み合わない会話を続けて「帰るよ。また明日来る」と言うと「家はどこだ?」と聞いてきた。知らない人に説明するように家の場所を告げると「いいなあ」とつぶやいて寝返りを打ち、こちらに背中を向けた。
帰り道、とても悲しくて泣きたかったけれども涙は出てこなかった。
夜中、会社で仕事をしていたら携帯に母から着信。「容態が急変したから病院に来てくれって」母も動揺していた。会社を出る前にこの街を離れて独りで暮らす妹に連絡して「タクシーつかまえてすぐ来い」と言うと切迫した状況であることを悟ったのか返事をする前に泣きだしていた。
病室に入ると母は親父に「お父さん、お父さん」と呼び掛けていた。
親父の兄である叔父さんが夫婦でやってきた。親父は焦点の合わない目で天井を見つめ、口を開いて胸を上下させて呼吸していた。看護婦さん数名がモニターを見つめたり緊急処置の道具を用意したりしていた。せめて妹が来るまでもってくれるといいのだけれどと思ったけれど、外はどしゃ降りで、妹のアパートまで高速を使ってもゆうに3時間はかかるから、間に合わないかなとも思った。
ピッという電子音の間隔が長くなり脈が弱くなってきたのがわかる。看護婦さんたちの動きが慌しくなる。母は相変わらず「お父さん、お父さん」と言っていたけれど、さっきの呼びかけとは違って、もうそれは叫び声みたいなものだった。叔父さんも足元から親父の名前を呼んでいた。僕はただみんなの様子と親父の様子を眺めながら、現実ではない不思議な世界にいた。
プーという長い電子音が鳴ったのと同時に看護婦さんが「心停止」と言った。病室に入って30分ぐらい経ってからだったと思う。すぐに一人の看護婦さんが蘇生のマッサージに取り掛かった。30数えながら心臓のあたりを押して手を休めて様子を見る。という動作を何度も繰り返していたけれど、自発呼吸はなく手を休めれば心臓も動かず、親父はもう生きるのをやめてしまっていた。
なんか、急に悔しくなった。というか頭にきた。むかついた。腹が立った。置いてけぼりを食らった気分だった。正体不明の怒りがこみ上げてきて喧嘩腰でいろいろ叫んだような気がする。
たとえ見込みは薄くても看護婦さんは蘇生の手をやめなかった。それを見てて、また息を吹き返すのだと思っていた。母は親父の傍らで泣きながら相変わらず「お父さん」と叫んでいた。叔父さん夫婦はじっと黙って様子を見ていた。妹から到着の連絡はなかった。
長い時間蘇生の処置は続けられたけれど、状況が好転することがないとわかった看護婦さんもさすがに手を止め、院長が何かを宣告するのを待っているようだった。その院長とて僕たちの誰かが何かを告げるのを待っていた。でも誰も院長に何かを言わなかった。そのかわり「どこを押すんですか」と尋ねた。看護婦さんがこの辺ですと教えてくれたあたりを両手で押してみた。10回づつ押してみた。押している間はモニターで心臓が動くのが確認できるのだけど、手を休めた途端にモニターに映る波形はすーっと水平な線になってしまった。
よく漫画かなんかで、誰かが息を引き取ったときにヒロインの女の子が「いやー」とか言って胸をドンってやると息を吹き返したりする。ふとそんなことを思って、両手を一つの拳状にしてドンとさっき押してた辺りを叩いてみた。一回目はなんとなく痛そうなので手加減してしまったので次は肋骨をへし折るつもりで思い切りぶっ叩いてみた。漫画のように奇跡は起きなかった。奇跡っていうのは滅多なことではないから奇跡って呼ぶのだと思った。
「延命装置なんて病院が金儲けをするための口実に過ぎない」と豪語していた母も、いざその状況になるといつまでも親父の死を認めず、看護婦さんが蘇生を再開するのを待っているようだった。あそこで何らかの機械を取り付ける提案がされていたら二つ返事で了承してただろう。現実に迫る死の存在感というか命の喪失感というのはいざその段になってみなければわからないものだ。両手ですくった水が指の隙間からこぼれるのを止められないのに似てる。なんていうか時間の向こう側へ行ってしまうのだ。上手く表現できない。
「ありがとうございました」
院長にそう言ったとき僕の声は震えていた。
「午前2時何分」と院長が看護婦に告げ、親父は死んだことになった。
極めて事務的に病室の機材が手際よく運び出され、胸のカテーテルを外す手術が施された後に親父は白い着物姿となった。妹が病院に辿り着いたのはそれからしばらくしてからだった。それからは葬儀の準備に追われ、それが済むと関係各社への対応や相続の手続きなんかで忙殺されて悲しんでる暇もなくどんどん毎日が過ぎていった。とはいえエアポケットみたいな瞬間に不意に寂しくなったりはしていたけれど。

昨日で一周忌だったのだけど

あのとき「ありがとうございました」って言わなけりゃ、もしかしたら息を吹き返していたのかなあって今でも思ったりする。となると、親父の息の根を止めたのってやっぱりあの「ありがとうございました」だったんだろうなあって。ゼロコンマの後、無限に続くゼロの次にやっと1%がある可能性だとしても、それを信じ切れなかった僕が親父を向こうにやってしまったのだと。自分を責めるわけではないし、その一言を後悔するわけでもないけれど、あの瞬間に分岐した『もういっこの未来』みたいなものを想像してしまう。